そのロットNo.337の価値は、古さだけではなく、ボトルには”Th. J.”という頭文字が刻まれていた。

競売の目録にはもちろん、その文字こそ、アメリカ人として当代随一のワイン通で通った、建国の父トーマス・ジェファーソンの頭文字であるとうたっていた。ジェファーソンの頭文字がボトルに刻まれていたなら、どの買い手も凍りついた歴史のひとかけらを自分のものにしたいはずだ。

1985年12月5日、ジェファーソン・ボトルの1本、ラフィット・ロートシルト1787が、クリスティーズのウエスト・ルームで競売にかけられた。それは、クリスティーズで競売にかけられた最も古いと認められたヴィンテージの赤ワインであった。特徴的なボトルも美しく、その中身も奇跡的に手つかずのまま全量残っていた。

1本のワインでは、おどろきの15万6000ドル(3150万円)。前代未聞の落札価格であった。落札者は、「フォーブス」誌発行人のマルコム・フォーブスの子息キップ・フォーブスだった。それも、ほんの1分39秒ですべてが終わった。

しかし、それから20年も経って、その”Th. J.”の頭文字こそが、偽装の証拠であると疑われることになる。というのも、その当初からジェファーソン・ボトルは波乱含みの展開をしめすことになったからだ。

本書『The Billonaire’s Vinegar』(『世界一高いワイン 「ジェファーソン・ボトル」の酔えない事情』 ベンジャミン・ウォレス著 佐藤桂訳 早川書房刊)は、「ニューヨーク・タイムズ」紙のベストセラー・リストに挙がり、映画化のハナシも進んでいるというきわめつけの、ワインの真贋をめぐるスキャンダルを描いたものだが、その要点をメモしてみよう。

クリスティーズにボトルを持ち込んだのは、ハーディ・ローデンストック。ムシュー・イケムと称され、ヨーロッパを代表するワイン収集家であり、希少ワインの世界では、凄腕のボトル・ハンターとしてすでに名をあげていた。かれによると、1985年の春、パリの住宅解体作業で、作業員がたまたま隠し部屋を見つけ、非常に古いワインを発見したということだ。

それが、ワインの供給元に事情はあれ、クリスティーズのワイン部門責任者であるマイケル・ブロードベントがいくら懇願しても、かれは正確な場所や、ボトルの数はもちろん、どんな情報も明かさなかった。
「ローデンストックは気取り屋か、詐欺師か?」
と、ブロードベントは問いかけ、
「かれがもう少し秘密を明かしてくれたら、と思う。あれでは人々の疑いを深めるだけだ」
と、疑念をていしてもいた。古く希少なワインには魔法の力があると信じるかれは、同業者も認める世界で最も熟達した味覚の持ち主であった。
「古い希少ワインを飲むためには、さらに踏み込んだ通であること。あえて言うなら死体をめでるのに近い」
と語り、
「味わうことは、老婦人と寝るのに似ている。それは不可能ではない。楽しむことさえできるかもしれない」
最後に、
「しかしそのためには、少しばかり想像力がいる」
と付け加えることは忘れない。

ふつうワインを評価するときの流れは、見る・嗅ぐ・味わうとなるが、古いワインを開けるときにはまず嗅いでみること。それというのも、古いワインの場合は色は変わらないのに対して、香りは変化する。一般に酸素に触れた古いワインは、若いワインよりもはるかに急速に変化する。最初のブーケからは色よりも多くのことがわかるが、それもわずか30秒で失われるというのだ。

そんな古いワインだからこそ、ラフィット、イケム、マルゴー、ブランヌ・ムートンの文字があるだけであっても、かれが太鼓判を押しただけで十分であったし、それとほんのひととおりの確証があればこと足りたのである。

トーマス・ジェファーソン記念財団から、そのボトルにまず、疑問の声があがった。1787年産に関しては、ラフィットどころかそのほかの銘柄の注文した記録もなく、受け取ったという記述もないということが分かっているというのだ。

それにもかかわらず、ローデンストックがジェファーソン・ボトルを発見してからというもの、”メガ・テイスティング”はますますエスカレートしていった。また、そこには必ずといっていいほど、目玉としてのジェファーソン・ボトルがあった。そのたびに、ジェファーソンの所有かどうかの問題、ボトルの出所をめぐる疑念も同様に広がっていった。

それはまた、ローデンストックが持ち込んだオールド・ヴィンテージの別のワインにも、疑いの目を向けていった。しかし、偽物を感知できるほどの優れたテイスターはいなく、奇妙な味がしても、ボトルのばらつきだとか、ワインの多様性などといい逃れることができるのだ。

そんなわけで、ローデンストックの疑わしいワインについても、経験豊富なテイスターたちの意見も分かれていた。また、科学にも限界がある。それも高価であればこそ、所有者が渋るだろうし、ボトルを開けずにワインを分析しようにも無理がある。

ジェファーソン・ボトルがニュースになってから、はや20年が過ぎ去ってはいたが、ボトルがジェファーソンのものだったかという確かな証拠も、そうでなかった証拠もないままだった。



そんななか、ボストン美術館が、ビル・コークの多岐にわたるコレクションの展示をおこなうと発表した。1985年のフォーブスの展示以来、一般の人たちがジェファーソン・ボトルを見ることが出来るまたとない機会が訪れた。石油関連企業の御曹司であるかれは、ジェファーソン・ボトルを4本購入していた。が、そのかれはジェファーソン・ボトルを誇らしく思うと同時に、その来歴に不安を募らせていき、ついに真相を究明することを決意した。

雇われた元FBI捜査官もまた、先人たちの挑戦をくじいてきたさまざまな対立意見が渦を巻く泥沼にはまりかけていた矢先、ジェファーソン・ボトルを指先で触っているうちに、ふと刻印を分析してみようと思いついた。ひとりの彫刻師と、元FBIの工具痕の専門家にその問題を託したのだ。このことが、偽造ワイン問題に決着をつけることになった。

それは、ブロードベントとローデンストックが長年唱えてきたペダル式の同の円盤によって無造作に彫られたものじゃなく、近代の方法で彫られていた。柄の部分が柔軟な電動工具である。おそらくは、歯科用のドリルだ。
「ローデンストックが自分で彫ったのだと思います」
と、コークの部下・ゴールドスタインは言ってのけた。

「訴訟は好きじゃない。しかし、いい道具にもなる」
と、調査員を前にしてコークは言った。それはまた、調査員たちはローデンストック自身に狙いを定めて、いまやかれの過去を洗いだす幕開けでもあったのだ。

本名はマインハルト・ゲールケ。二人の息子がいて、結婚暦もあった。それにギズベルトという名の弟がいて、これまたワインに情熱を傾けていたのは皮肉なことでもあった。

それに、香水やエッセンスを製造する会社を所有している事実など興味深い情報を探り出していった。また、過去の裁判において、
「ローデンストックがワインに混ぜものをした。あるいは混ぜ物をしたワインをそれと知りながら提供した」
という裁判所の秘密文書をも手に入れていたのだ。

コークは調査を自分のコレクション全体にまで広げることを決め、ザザビーズの元ワイン部門責任者のデイヴィッド・モリヌー・ベリーを雇い入れた。そして、それもやはりというか、偽物とおぼしきボトルのいくつかは、ローデンストックが供給元であったのだ。

ついに、2006年8月、コークはローデンストックをマンハッタンの連邦裁判所に訴えた。クリスティーズは訴えず、証人として協力してもらうことを期待した。

訴訟から2ヵ月後、ゴールドスタインのもとに、ローデンストックの元家主からEメールが届き、
「かれはまさに有名人の知り合い自慢の奇想天外な男だった」
と書いてあり、それによると、
「地下室での不審な木をたたくような物音が始終聞こえ、屋根裏部屋でのカビ問題がやがて賃貸料の支払い騒動になった。ローデンストックはというと、家具など所有物は残したまま、近くの高額な賃料のペントハウスに移り住んでいた。明け渡しに金を要求し、裁判では証拠を捏造した。

そこで、途方にくれた家主は居座ったままのローデンストックが、この家を事務所として使っていたのではと疑い、それはそのまま賃貸契約違反となるのだが、ローデンストックは本拠地はミュンヘンにあって、他の家は休暇用のアパートだと証言したという。それは、税金を払っていないかれにとっては、みずから墓穴を掘った形だったのだが、その法廷証言を家主は税務当局に送りつけた。

3年後、ローデンストックは小額の立ち退き料と引き換えに、退去することに同意した。それはローデンストックが国外で借りていたアパートにも税務警察が興味を持ち、現地当局と共同で捜索を始めていたからだ。

家主は所有物を運び去った地下室に降りてみると、そこには文字の彫られていない未使用のワイン・ラベルがつまれてあり、古そうに見えるコルクの山があった。またもう一方の部屋には、空のワイン・ボトルが数ダースと、カーペットに泥土の山があった。のち、家主であるクラインは、
「かれがボトルをしこみ、古くみせる細工をしたのだと確信した。一目瞭然だった」
と、コークの訴訟を知ってから、すぐに書き留めたという。裁判の決着までには時間がかかりそうだが、ローデンストックのワイン界における存在はこれでおしまいになった。

いみじくも、ワインの偽造にはさまざまなやり方や、度合いがある。1980年代初めから、高級ワイン市場では偽造がめずらしくなくなってきていた。いくつかの不正は暴かれたものの、ワイン・ボトルは似たり寄ったりであり、開けてみなければ、中身は確認のしようがない。業界も信用に頼っている部分がはるかに大きいのだ。ワイン界で最も影響力のあるロバート・パーカーは、
「出自の証明書もなしに、何千ドルもの値段で売ることのできる世界でただ一つの商品である」
と語り、独自のニュースレター・「ワイン・アドヴォケイト」に、「ワインのなかに真実はあるか?」というエッセイ集をのせた。取り上げたのは、「灰色市場」、つまり公認された供給ルート以外の流通経路における、次第に増えていく明らかな偽ボトルについてである。

コレクション向けの品物の中でも、ワインは最も古くから偽造されていた。収集品としてのワインは、ワイン商、競売会社たちが売買や交換を行っても、精査されることがないからだ。

※ 再投稿です。



☆★☆ ウィントン・マルサリス もうひとりの巨匠? ☆★☆

フュージョン全盛時、昔ながらのフォー・ビート・ジャズをもって、ジャズ界に彗星のようにあらわれた天才トランペッターである。また、圧倒的なテクニックをもって、クラシックにも精通。

スタンダード・タイム Vol.1」をWALKMANで聴く。おなじみのナンバーだが、メンバーのサポートもあって、ウィントンの工夫をこらした豊かな音楽性をもった解釈、驚異的ともいえるテクニックを駆使したアドリブ演奏は、聴き応え十分だ。

それと前後するが、ハービー・ハンコック制作の初リーダー・アルバム「マルサリスの肖像」は、完成度も高く、奔放なプレイをみせてくれ、マルサリスの魅力があふれている。