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シャンパン・チャーリーとは、オレのことさ! 其の壱。

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シャンパン・チャーリーと、3つのエイドシック。

アメリカは、シャンパーニュにとって手つかずの土地だった。野蛮なインディアンが住むというそんな未開の地に、単身で乗り込んだ男がいた。そのアメリカで、
「シャンパン・チャーリー」
と呼ばれ、人気をはくしたのが、シャルル=カミーユ・エイドシック、その人である。

ちょいと昔、シャルル・エイドシックが店頭から消えて久しい、ときいていたもんだ。インポーター不在で輸入なしという、ちょいと厳しい現状だったようだ。当時は、どちらかというと目立たないラベルで、悪くいえば安物シャンパンのイメージしか持っていなかった。

どういういきさつだったかは忘れてしまったが、初めての印象は悪くはなかった。香りも上品だったし、意外やがっしりした味わいだった記憶がある。残念ながらプレステージの「シャンパン・チャーリー」じゃなく「レゼルブ」だったが、シャンパーニュの底力にあらためて驚いたもんだ。

今夜はちょいと昔を振り返って、シャルル・エイドシックと、そのエイドシック3社にまつわるハナシだ。


シャルル=カミーユは「ピペ・エイドシック」社で修行後、30歳直前に「シャルル・エイドシック」なるシャンパン・メーカーを義兄弟のアーネスト・アンリオを共同経営者として設立したばかりだった。

シャンパン歴史物語』によると、
「聡明で、大胆で華麗な一族のなかでも、とりわけ派手な性格。また、2メートル近い大男で、あごと口ひげをたくわえた大きな濃い色の目をし、いつもやさしく笑っているようにみえた」
とある。かれはアメリカ南北戦争の英雄でもあったし、栄光と挫折、まさしく波乱の人生を送ったのだ。

ロンドンで大ヒットをとばしたミュージカル、およびヒュー・グラント主演のTV映画「シャンパン・チャーリー」をご存知だろうか。シャンパン・チャーリーこと、シャルル=カミーユの冒険は、父・アンリのそれでもあった。

1852年、シャルル=カミーユはボストンに着いた。南北戦争前のことだ。
「ここはチャンスの国だ」
と、妻に当てた手紙にそう書いた。すぐさま、ニューヨークで代理人を雇い、帰国するや大量のシャンパンの手配を整えた。

5年後、15本入りのパニエ、2万個とともに、かれはふたたびニューヨークを訪れた。
「われらがチャーリーが帰ってきた」
と、あらゆる新聞が騒ぎ立て、ある新聞は、
「シャンパン・チャーリー」
と呼んだ。

気晴らしを兼ね、3度目のニューヨークを訪れたさいに、大量のシャンパンとともに、父・アンリより派手好きのかれは最新型のピストルと狩猟用のライフル銃を携えた。そんなかれの姿こそ、アメリカ人の好奇心を揺するには十分だったのだ。

それに銃の名手という前評判どおり、壜を放り投げ、ピストルで打ち落とすという曲芸まがいなことをやってのけていたらしい。

シャンパン好きのナポレオンの外征につきしたがい、シャンパンの外交販売員は有り余る知恵と、行動力で世界を駆け巡った。そのなかでも、シャルル・アンリの独創性は別格だった。とりわけ、ロシア遠征での大活躍は、ロシア宮廷を牛耳っていたヴーヴ・クリコをも度肝を抜くものだった。

ナポレオン軍が進撃中に、
(先まわりして、かれらとお祝いをしたいものだ)
と思いついた21歳のアンリは、さっそうと白馬にまたがり、ランスから一路3000キロも離れたモスクワにシャンパンの見本を積んで疾走。大センセーションを巻き起こした。

後年、息子・カミーユを連れてロシアに渡り、ニコライ一世の前で、かれにシャンパンの壜を持たせ、サーベルで壜口を切り落とす離れ業をやってのけた。こんな「ロシアン・メソッド」と呼ばれるハデな至芸だっただけに、カミーユ家のお家芸となったのも、しごくとうぜんのことだろう。

1861年、一人の男がサムター砦にライフルをぶっぱなした。南北戦争の火蓋が切って落とされたのだ。その悲報を聞くや、シャルル=カミーユはすぐさまアメリカに向かった。資産の半分はアメリカにあり、数千本のシャンパンの代金が未回収だったのだ。

各代理人は、債務者免除をタテに支払いを拒否した。かれには肩入れしていた南軍の本拠地・ニューオリンズに秘密裏におもむき、直接集金する方法しか残っていなかった。

しかしながら、財政破綻に陥っていたかれらは現金を持ちあわせていなかったが、その代わり港にはあふれんばかりの綿が積み重ねなれていた。かれは支払いを綿で片づけようと、カケにでた。ヨーロッパで売れば、一財産つくれると目論んだのだ。

北軍の海上封鎖の目をかいくぐって、モービルで2隻の船を確保。別々の航路で向かわせたまではよかった。その一隻の船が不運にも、砲撃により沈没。意気消沈したかれは、ニューオリンズに向かう船に乗りこみ、故国に帰ろうとした。そんなとき、フランス領事官に外交袋を運ぶことを頼まれ引き受けた。

すでにニューオリンズは北軍の手に落ちていたが、かれはそれを知るゆえもなかった。兵士たちが乗り込んできて、外交袋は押収された。そのなかに政府の緊急文書だけではなく、フランス政府の南軍兵士の制服供給の申出書があったのだ。

スパイ容疑でかれは即刻、脱走不可能のジャクソン要塞に収監された。フランス外交官による釈放をも手詰まってしまい、挙句は2隻目の船も拿捕され、積荷は焼かれてしまったという報告をも受け取った。

この「エイドシック事件」は、大きな関心ごとになった。1862年になって、リンカーン大統領の指示で、エイドシックは半死半生の状態で釈放され、やっとのこと帰国。が、かれを待ち受けていたのは、メゾンの倒産であって、妻は債務を支払うために財産の処分をしはじめていた。

そこに奇蹟が起きた。近くの村にいる家族を訪ねてきた老宣教師が、エイドシックに会いたいと、使いのものを寄越した。ある寒い冬の夜のことだった。かれがかけつけると、その宣教師は一包みの紙束と、一枚の地図を手渡した。

それはコロラドの土地に関するエイドシック名義の証書だった。とあるニューヨークの代理人の兄が支払い要求を拒否した弟のことを大いに恥じ入って、払うべきお金の幾分かを肩代わりしたいと思い、払い下げの土地を買ったらしいのだ。

ところが、その土地はデンバーの街の3分の一を占めていて、いまや西部でも有数の広さと、豊かさを誇る街区になっていたのだ。そのおかげで、シャルル・エイドシックは借財を完済し、再起したのだ。

参考図書;『シャンパン歴史物語』(クラドストラップ夫妻著 平田紀之訳 白水社刊)
シャンパン物語』(山本 博著 柴田書店刊)

♪ 今夜はiPodで、エリック・ハイドシェックのモーツアルトを聴こう。ピアノ協奏曲第20番と、第23番だ。そう、かれこそシャンパン・チャーリーこと、シャルル=カミーユの末裔にあたる御曹司でもある。

いわずと知れたあの故宇野功芳氏のご贔屓(ひいき)のピアニストである。そういえば、一時期評判を呼んだ伝説の宇和島ライヴってのもあったなあ。まあ、こっちのメインはベートーヴェンのピアノ・ソナタだったが…

この2つの協奏曲にはさすがに数多くの名盤があり、これもその一つ。この演奏、けっこう好きである。自作のカデンツァが魅力的。

指揮は、今は亡きヴァンデルノート。演奏は、こちらもまた解散したパリ音楽院管弦楽団だ。それにソリストのハイドシェックも、今じゃ演奏スタイルがすっかり変わってしまった。 ♪

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