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「フジタの薔薇(バラ)」、G.H.マム!

wine

「Here’s looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」

ハンフリー・ボガード演じる主人公・リックが、かつての恋人・イルザ(イングリッド・バーグマン)に向かって語るこの名訳台詞だ。むろん、1942年に公開された『カサブランカ』。

ピアノ弾き・サムの“時の過ぎゆくまま”を聞きながら、シャンパーニュを飲む有名なシーン。パリで過ごした最後の日は、哀しい思い出に変わってしまった。「G.H.マム・コルドン・ルージュ(G.H.MUMM CORDON ROUGE)」で、乾杯。

白地に、斜めに描かれた赤いリボン(CORDON ROUGE)が特徴のボトルデザイン。レジオン・ドヌール勲章受章者に授与される赤いリボンをモチーフとしたデザインは、ラベルではなく、ボトルに刷り込まれており、ほかのシャンパーニュにはない特徴となっている。そのデザインは、1875年のあるパーティーで招待客に敬意を表するため、ボトルに赤いリボンを描いたのがはじまりだった。

「G.H.マム・コルドン・ルージュ」は、肉厚の果実のような芳醇な香りが特徴。酸味や、苦みのバランスも良く、ふくよかな力強さを感じることのできる。それというのも、赤ワイン用の高級品種であるピノ・ノワールを多く使っていることもあろう。シャンパーニュの骨格をつくり上げるブドウといわれており、より多く使うことによって、複雑な味わいを表現することが出来るというもの。

さてさて、そんなボガードことリックは、
「どんどん飲めとさ。ドイツ人にシャンパンをやるのはシャクだから」
というものの、じつのところ、G.H.マムはドイツ人がランスにおこしたメーカーであって、「コルドン・ルージュ」を発売したところ大ヒット。ところが人気が出たことでねたみを買い、第一次世界大戦中に敵国資産としてフランスに没収されてしまう。

映画では、フランスがドイツに占領されようとする時に、かつてフランスがドイツ人から取り上げたシャンパンを飲むという設定になっているわけで、マムに託した意図が伝わってくる。

男爵と、騎士の家系を持つマム・ファミリーのはじまりは12世紀にまでさかのぼる。1761年にはすでに、ドイツのケルンにて、「P.A.マム」として、ワインづくりをおこなっていた。ついで、「P.A. Mumm Giesler et C°」は、1827年3月1日にドイツのライン渓谷出身の三人兄弟(ジェイコブス、ゴットリーブ、フィリップ・マム)と、G.ハウザーと、フリードリッヒ・ギースラーの5人で設立されたものだ。

「P.A.」は三人兄弟の父、ゾーリンゲンで成功したワイン商人であるピーター・アーノルド・マムの頭文字をとったもの。1852年に三人兄弟のひとり、ジョルジュ・エルマン・マムが会社を引き継いだのを機に、社名は現在の「G.H.MUMM et Cie」に変更された。

マムのブドウ畑を整備していくなかで、先進的な意識を持ったジョルジュは、品質を追求する姿勢を重視し、メゾンの基礎を築きあげた。また、メゾンの創成期を支えた先祖たちの冒険心に触発され、シャンパーニュづくりをひろめるため、ヨーロッパをはじめ、オーストラリアや、ニュージーランドなど世界中を精力的に訪れた。



そんななか、ジョルジュがつくり上げた最も偉大なシャンパーニュ・「コルドン ルージュ」は、G.H.マムの品質を象徴するシャンパンとして現代まで引き継がれている。2005年、フランスの大酒造メーカー、ペルノ・リカールに買収されたものの、2017年から「マム グラン コルドン」として、リニューアルされた。

ラベルデザインも、味わいも、一新。ボトルは、スタイリッシュ。リボンの部分だけ、ガラスがくぼんでいる凝ったデザインになった。むろんマム メゾンスタイルの象徴である「マム コルドン ルージュ」は、不変だ。

だが、かれがモットーとしていた「Only the Best.(最高のシャンパンだけを)」という理念は、現在にまで受け継がれ、栽培から醸造まで一貫した管理のもと、高品質なシャンパーニュを生み出しているのだ。

前述のように、フランス政府は第一次世界大戦が勃発した1914年に、シャンパーニュ地方に100年ほど定住していたにもかかわらず、フランス国籍を持っていなかったマム家の財産をすべて没収。

取締役としてルネ・ラルーが加わったのは、1920年。先見の明に優れていたかれは、G.H.マムの発展に最も重要なのは土壌と品質であると考えた。

メゾンが所有していたブドウ畑の全面的な再編をおこなうにあたり、すでに所有していた畑を再整備すると同時に、グランクリュの畑を追加購入した。およそ半世紀にわたるかれの指揮により、20世紀のメゾンの発展が推し進められた。

最初のロゼ・シャンパーニュは1860年代につくられ、「ロイヤル ロゼ」と呼ばれた。マムが所有する6つのグラン・クリュのアッサンブラージュを味わうことができる。言わずとしれた「メゾン マム RSRV ロゼ・フジタ」だ。

じつはこれ、マムにゆかりの深い画家である日本人画家のレオナール・フジタこと藤田嗣治がデザインした薔薇が、王冠(ミュズレ)を飾っている。「フジタの薔薇(バラ)」と、呼ばれるものだ。

1913年に初めてパリに到着したフジタは、すぐにピカソや、アポリネールとの親交を深め、両大戦間において、エコール・ド・パリの寵児と呼ばれ、フランスで最も人気の高い芸術家のひとりといわれるようになった。

ところが、日本での評価はひどいものだった。異端なファッション、その髪型もあってか、フランスに媚びた日本の恥とまで、評論家に酷評された。それ以上に藤田を絶望させたのは、戦時中に軍の依頼で描いた絵を批判され、画壇の戦争責任を一人負わされ、日本を追われたことだった。

藤田は各地を転々とした後、1950年代前半にフランスに帰化し、住居を構えた。1957年のこと、当時の社長だったルネ・ラルーは、ロゼのイメージにふさわしいマークを探していた。ラルーは、芸術の愛好家でもあった。

ラルーは、そのすぐれた審美眼を持つパトロンとして、G.H.マムの歴史と、20世紀絵画の歴史を結びつけた。モーリス・ユトリロや、レオナール・フジタといった著名な芸術家たちが、G.H.マムを作品に登場させ、その名声を永遠のものにした。熱心な美術品収集家でもあったラルーは、親交のあったフジタにデザインを依頼。

フジタは、「薔薇(バラ)の花を持つ少女」というフレスコ画を贈呈した。同フレスコ画に描かれたバラの絵を纏った王冠(ミュズレ)に、その薔薇(バラ)を見ることができる。

この薔薇(バラ)によって、二人の間の絆はさらに強まった。フジタはキリスト教に改宗し、ノートルダム寺院で洗礼を受けた。洗礼親をつとめたラルーは、ランスのG.H.マムにほど近い場所にある土地をフジタに提供し、フジタはそこにチャペルを建設した。

フジタ自身がデザインと、装飾を手がけたロマネスク様式のこのチャペル(フジタ礼拝堂)は、かれが80歳のときに完成した。フジタ礼拝堂は1966年10月1日に奉献された後、18日にランス市に引き渡され、1992年に歴史的記念物に指定された。フジタの薔薇が教えてくれるのは、自分を超えることに挑戦する大切さなのだ。

G.H.マムはまた、世界最高峰の自動車レース「フォーミュラ(F1)」での「シャンパンファイト」や、国際的評価の高いヨットレースでの表彰式などで公式シャンパーニュをつとめた。その「シャンパン・ファイト」の歴史は、意外や新しい。1967年、ル・マン24時間レースで、過去7度挑戦して、一度も完走できなかったダン・ガーニーが優勝の感動を抑えきれずシャンパンをかけたのがはじまりだ。

また、世界最大級の競馬レースであるケンタッキー・ダービーとオーストラリアのメルボルン・カップの公式シャンパンでもある。

■■飲酒は20歳になってから。飲酒運転は法律で禁止されています。お酒は楽しく、ほどほどに。

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