ビゼーは、カルメンを書くために生まれてきた!
歌劇『カルメン』は、世界でもっとも有名なオペラだ。ストーリーのおもしろさ、躍動的な旋律、だれでもどこかで一度は聞いたことのあるメロディがたくさん登場する。
スペイン南部の異国情緒あふれるセビリア。フラメンコや闘牛が有名で、オペラ「フィガロの結婚」や「セビリアの理髪師」の舞台ともなった街だ。あらすじはというと、自由奔放なジプシー娘のカルメンに心を奪われた純情な青年ドン・ホセが、そのために身を持ち崩して転落人生まっしぐら。最後には愛憎のもつれから、その手でカルメンを刺し殺す……という衝撃のストーリーが、情熱的なスペインのリズムに彩られた親しみやすいメロディにのって展開。
『カルメン』の終幕は、闘牛場の前でおこなわれる殺人劇。オペラ屈指のエンディングといわれている。闘牛場のなかでは、カルメンの新たな恋人の花形闘牛士・エスカミーリョの闘牛がおこなわれている。
観客の歓声と彼を讃える歌声が響くなか、場外の広場では、ホセとカルメンが対峙し、ドメスティックな殺人劇が繰り広げられる。その明暗のコントラストが主人公たちの歌と合唱によって高められていくラストシーンは、オペラ屈指の名場面として知られている。
早くから音楽に目覚め、わずか19歳で名誉あるローマ大賞(※1)を受賞した天才・ビゼーだが、作曲したオペラはほとんど成功をおさめることはなかった。…にもかかわらず、なんとも皮肉なことに、その36歳という若さで死ぬ直前に書かれた『カルメン』が一大ブレイクしたのだ。
ジョルジュ・ビゼー (Georges Bizet) は1838年、パリに生まれた。父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群。入学年齢に満たない9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。
18歳でオッフェンバック主催のコンクールで大賞、19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』で、ローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストをおどろかせた。
しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。オペラなどの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときのオペラ『真珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立する。
34歳のとき,自作の曲に基づく管弦楽組曲「アルルの女」が、かつてないほどの大成功をおさめた。これに勇気づけられたビゼーは、「カルメン」の創作に全力を注いだ。
音楽の間を台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれている。全4幕。オペラ・コミーク劇場(Theatre National del’Opera-Comique)は、庶民向けの大きくない劇場である。この作品はもともとはこの劇場のためにつくられ、1875年3月3日にそこで初演された。それ以来、『カルメン』はオペラ座で上演されることはなく、1959年までは、ここオペラ・コミークで上演されるのがしきたりとなっていた。
初演に際して、また初演後にもヒゼー自身の手で改訂された箇所が随所にあり、加えてその後の上演のなかでも次第次第に改変されてきた。
現在ではカルメンは地のセリフの部分はレチタティーヴォで歌われ、さらにはバレエシーンもはいるいわゆる「グランド・オペラ」スタイルで演奏されるのが一般的。
この「グランド・オペラ」スタイルのカルメンは、ウィーン初演のために、友人でもある作曲家エルネスト・ギローが台詞からレチタティーヴォを作曲しバレエも加えたもので、通常ギロー版と呼ばれているものだ。それ以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となった。
フランスオペラならではのコミカルなシーンもあり、ファム・ファタル(魔性の女)的カルメンの泥沼愛憎劇だけでなく、軽妙な楽しさや、ジプシーたちの自由な気風のよさも出ている。
また、ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなく、メゾソプラノに設定したことも新しさの一つだった。それに、ヒロインが王女やお姫さまでなく、女工という下層階級の女であるのも、型破りだった。ヴェリズモ・オペラ(※1)の先駆といっても過言ではない。メリメの小説を原作に、パリのオペラ=コミック座のために書き下ろしたものだ。
当時、実際にスペインで起こったセンセーショナルな男女の事件を新聞で読んだメリメが、インスピレーションを得て書き起こしたといわれている。
それと、メリメがスペインに旅したときに実際にジプシーたち会った体験や、土地の人から聞いた嫉妬に狂った男に殺されたジプシー女の話などをまとめたものだ。ビゼー自身もまた、スペインの地に足を踏み入れたことはなかったようだ。
初演での大コケも、実際は劣悪なオーケストラや、主役・カルメンを除いた歌手たちのレベルの低さにあったと考えられ、その後の客入りと評判は決して悪くなく、ビゼーのもとには『カルメン』のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォにあらためたグランド・オペラ版への改作が依頼された。
この契約を受けたビゼーだったが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、敗血症のため死去した。『カルメン』初演の約3ヵ月後であった。この日はまた、かれの結婚記念日でもあった。
1869年に、師であるアレヴィの娘・ジュヌヴィエーヴと結婚。のち、息子・ジャックを連れて、ロスチャイルド財閥の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。
その初演から3ヶ月後の6月3日、オペラ・コミック座では「カルメン」の第31回公演が開催された。カルメンを演じていた歌手は、第3幕の占いの場でトランプを並べてみたところが本当に凶と出たので、なにか胸騒ぎがしたという。
リブレットはフランス語で書かれているが、物語の舞台はスペインである。そのため日本では役名の「José」をスペイン語読みで「ホセ」と書きあらわすが、実際はフランス語読みで「ジョゼ」と発音して歌われる。音楽もハバネラや、セギディーリャなどスペインの民族音楽を取り入れて作曲されている。
さて、もっともセリフを忠実にしゃべっているのはレヴァイン盤である。ただアバド盤ぐらいのカットならば普通というべきだろう。しかし、クライバー盤になると、第1幕でツニーガ中尉と、ドン・ホセの会話がカットされている。ここは、このオペラを理解するのに重要なことが語られている。
というのも、ホセが故郷のナヴァラを出てセビリアに出てきたいきさつを語る部分(ここはアバド盤もカット)に続いて、その長セリフの後半で、ミカエラがこの段階ではホセの許嫁ではなく「ホセの母親が拾って育てた孤児だ」という紹介がされるのである(アバド盤は残している)。
このあとミカエラが届けた母からの手紙のなかで、母が「ミカエラと結婚しなさい」とホセに勧めるのは、これをふまえないとちょっと不自然だ。
もう一つ、クリュイタンスによる演奏は、そういう初演以来の伝統が息づいているオペラ・コミークでの演奏をもっとも良質な形で録音したものだ。当時、クリュイタンスはオペラ・コミークの音楽監督をつとめており、主演している歌手もすべてオペラ・コミークに所属する歌手でかためられている。
ビゼーが書いたカルメンは、この「オペラ・コミック」スタイルであり、初演もこのスタイルで上演された。そして、オペラ・コミークではこのスタイルをかたくなに守り続けてきた。
おまけ; 『カルメン組曲(Carmen Suite)』
オペラ『カルメン』の前奏曲、間奏曲、アリアなどを抜粋・編曲した組曲。この組曲もイゼーの友人エルネスト・ギローの手によるもので、「前奏曲」の有名な冒頭の部分を「闘牛士」として独立させ、第1組曲の最後に置くという独創的な方法を取っている。
一般的に知られているのは、フリッツ・ホフマンの選曲・編曲によるものである。第1組曲と、第2組曲がある。指揮者によっては演奏順を変えたり、第1、第2組曲を1つの組曲として演奏したり、2つの組曲から適宜選曲してオリジナルの組曲を編むことも自由におこなわれている。
もう一つ、「アルルの女」組曲はもう少し複雑な成立過程があり、第1組曲はビゼー自身の手によるものであり、第2組曲はやはりギローが、ほかの作品からの曲も加え組曲としたものだ。とはいえ、どれも原曲の良さが際立つ編曲である。
※1 ローマ大賞:絵画・彫刻・建築・版画・音楽(作曲)の諸部門について年1回おこななわれるコンクールで、大賞(グランプリ)を得た者はフランス政府がローマのヴィッラ・メディチにもつアカデミー・ド・フランスの寄宿留学生となり、2年以上4年まで滞在して生活保証の下で創作に従う権利を与えられる制度。