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ガーシュイン

1924年、ニューヨークのミッドタウン、「エオリアン・ホール」で、あの独特のクラリネットのノンシャランとしたグリッサンドではじまった『ラプソディ・イン・ブルー』。ヨーロッパのもまねに過ぎなかったアメリカの音楽が、その域を脱して、新しい音楽を発見した歴史的な瞬間であった。

ラプソディ・イン・ブルー』(末延芳晴著 平凡社刊)。

のだめカンタービレ」でおなじみの、ミュージカルや、クラシック、ラグタイムの作曲・演奏で華々しい活躍をし、アメリカン・ドリームをやってのけた、ご存知ガーシュインの出世作だ。

狂乱の20年代、空前の大衆社会が生まれようとしていた。もちろん、音楽もそうだ。

とりわけ、ニューヨークは、移民の流入と、人口移動の町であり、あらゆる生活レヴェルで、さまざまな技術革命、生活革命が目覚しく進行していた。多様な文化的価値がクロスオーバーしあい、ヨーロッパ白人音楽、アフリカ伝来の黒人音楽が融合、統合して、独自の音楽的なスタイルを確立していく。

それも、まずはダンス・ミュージックとして始まり、そこから様々なジャンルが生まれた。その一つが人種のワクを超えたラグタイムであり、そしてアメリカの国民的音楽になった。

スコット・フィッツジェラルドが、その作品『ジャズ・エイジ物語』のなかで、命名した「ジャズ・エイジ」は、アメリカの1920年代の代名詞となる。

その「ジャズ・エイジの申し子」たるガーシュインの作品は、マイルス・デイヴィスをはじめ、多くのジャズ・ミュージシャンたちに愛され、録音されてはきた。しかし、それらの曲は、ミュージカルや、オペラのために書かれた作品であって、ジャズのために書かれ、演奏されるためのものではなかった。

初のトーキー映画であるアル・ジョルスン主演の「ジャズ・シンガー」が、いい例だ。ガーシュインが、ラグタイム調で作曲した「スワニー」が、大ヒットした。ミンストレル・ショーにならって、顔を黒くぬったジョルスンが歌うのは、黒人ジャズや、ブルースじゃなく、白人が歌っていたポピュラーであり、ラグタイムであった。

1898年、ブルックリン郊外、イースト・ニューヨーク地区にて、ガーシュインは、ロシア系ユダヤ人の父母のもと、次男坊として生まれ、音楽とは無縁の家庭環境で育った。そのジョージこと、ジャコブは手のつけられないくらいの暴れん坊で、10歳すぎたあたりでは、いっぱしの不良少年でもあった。

そんななか、兄・アイラに買いあたえた中古のアプライト・ピアノを、ジョージは何の苦もなくピアノを弾いたものだから、母親はおどろき、さっそくどこやから探してきたピアノ教師につけた。

14歳で、音楽に目覚め、遅れてきた天才少年・ガーシュインは、本格的にピアノをはじめた矢先、チャンスがおとずれた。ティン・パン・アリイの楽譜商・レミック社のピアノ奏者オーディションに合格。店頭ピアニストとして、朝から晩まで、ラグタイム、ラグタイム風の新譜のデモ演奏をこなした。

うまい。うまくて、研究熱心なガーシュインは、多くの人たちをその演奏でトリコにした。その頃、ぽつぽつ出来つつあった劇場から誘いもあって、ショー・リハーサル・ピアニストになる。実入りが、良かったのだ。

大好きな作曲のほうも、忘れはしない。オペレッタから生まれたミュージカルの作曲家として、着実にキャリアを築きあげていたそんな頃、かつて曲を書いたこともある「ジャズ王」、ポール・ホワイトマンの新聞広告を見ておどろいた。

そこには、ガーシュインが今、作曲中のジャズ・コンチェルトが完成しだい、楽団で演奏したい、とあったのだ。寝耳に水とは、このことだ。事前に相談もなく、勝手に広告を出され、あげくはしてもいないコンチェルトを作曲することが決められてしまったのだ。

基本的構想は、ガーシュインがボストン行きの車中で着想され、ニューヨークに帰ってから、このユニークなジャズ・コンチェルトはわずか3週間で書きあげられた。ショパンや、ドビュッシーの影響もカイマ見えるが、それは、ワクにはとらわれず、ジャズと、クラシックが融合した自由で、新しい音楽となった。

楽団の編曲者・グローフェの力もあった。ホワイトマンは、ガーシュインから草稿を受け取ると、すぐグローフェの手に委ねた。いわゆるシンフォニック・ジャズとして演奏するためだ。それというのも、ガーシュインは、まだ管弦楽法が、まだ未熟だったせいもある。

ホントは、ジャズ・バンドを念頭において作曲したつもりだった。それは、ガーシュインの手稿には、ちゃんと「ジャズ・バンドと、ピアノのために」
とある。

それでも、本番を前にして、カデンツァが、未完成のままだった作品。ガーシュインは、圧倒的な即興演奏を披露して、その場をこなした。ラグタイム・ピアノ風ではやく、
「クリプシーで、トリッキー」
でさえあった。ガーシュインでさえ、ある意味やりたい放題をやっているのに、総じてどのCDを聴いても、おとなしいのは気にかかる。

曲名にしても最初、「アメリカン・ラプソディ」と考えていたが、兄アイラのアドヴァイスで、「ラプソディ・イン・ブルー」とかえてもいる。「ブルー」のイメージが、ジャズ的な印象、「ジャズ・エイジ」時の限りなき透明のブルー、それはまた、星条旗のイメージとも重なる。

とはいっても、この作品は、クラシックにおける厳密な構成力が欠如していることは、よく言われていることだ。レナード・バーンスタインによると、
「あらゆる意味で、作品とはいえない。バラバラのパラグラフを糊と、水とでくっつき合わせただけの、糸にすぎない」
と、手厳しい。だからといって、哀愁たっぷりの、協奏曲風の同曲の魅力は、色あせることはない。それと、アメリカ人にとっては、立派なクラシック音楽なんだから。

専門的な教育を受けてはいなかったガーシュインは、後年、アメリカをおとずれたラヴェルに弟子入り志願をするも、
「一流のガーシュインは、二流のラヴェルになる必要なんかない」
と、やんわりと冗談をもっていなされたという。

ガーシュインは、ミュージカル作曲家として大成したものの、黒人音楽への情熱は失ってはいなかった。それは、オール・ブラック・キャストによる傑作オペラ・「ポーギーとベス」に結実された。

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