われは1級なりしが、かつては2級なり、されどムートンは変わらず!(1)

PREMIER JE SUIS, SECOND JE FUS, MOUTON NE CHANGE. 1973年、史上唯一の昇格を果たしたシャトー・ムートン・ロスチャイルドのラベルに、そう記したのはバロン・フィリップ・ド・ロスチャイルドの創業者フィリップ男爵だった。

「ラフィットは人頼み、ムートンはオレ頼み」
と、よくぞいったものだ。1976年の「パリスの審判」、いわゆるフランス人ワイン専門家9人によるブラインド・テイスティングで、ムートンをふくむフランスワインが、カリフォルニアワインに負けるや、フィリップは審査員に電話して、
「私のワインになんてことをしたんだ。1級昇格に40年もかかったんだぞ! 」
と、いかにも腹立ちまぎれに、どなりつけたという。21歳でこのシャトーを得たとき、ブドウ畑に魅入られた青年が並々ならぬ野心を抱いたのは疑いないことだ。

そう、かれは1855年のメドックのワインの格付けを変えさせた、たった一人になったのである。フィリップ男爵は1988年1月に死去。のちかれの娘フィリピーヌがこのワインづくりの帝国の精神的頂点に立った。2014年、演劇をこよなく愛したそのフィリピーヌ男爵婦人、逝去。現在、かの女の長男フィリップ・セレイス・ド・ロスチャイルドが監査役会会長。

1830年代。不作と不況で、多くのシャトーが身売りや、当主の交代などが余儀なくされた。ラフィットはファンデルベルクから、1868年、パリ・ロスチャイルド家へ。鉄道事業に進出して成功し、「鉄道王」と呼ばれた2代目ジェームズが死去する直前のことだった。買い手がつかなかったものを、競売でパリ・ロスチャイルド家が購入した。

そのことが、努力もせずに1級の格付けを獲得したことに、ロンドン分家は不快感を示したものだった。ムートン(「シャトー・ブラーヌ・ムートン」)は、ロンドン分家のネイサンの三男・ナサニエルが、1853年に買収した。

そして、その名を「 シャトー・ムートン・ロスチャイルド 」とした。その後、1922年、弱冠21歳の曾孫のフィリップがこの経営を引き継ぎ、パリから居宅をこの地に移し、本格的なワインビジネスをスタートさせ、偉大なる飛躍の道をたどることとなった。

1855年の格付けでは、2級という格付けだったムートン。もともと有名なシャトーを分割したうちのいくつかを買ったものの、何度かロスチャイルド家の手を離れたり、新たにシャトーを購入したりといった変遷があった。

ナサニエルは、ムートンを1級に格付けさせようと画策した。が、2級となった。格付けは紆余曲折を経た後で、1級の取引価格であったにもかかわらずにだ、無念なり。ナサニエルは、
「われ一級たり得ず、されど二級たることを潔しとせず。われムートンなり」
と、ブドウ園に掲げたという。



それからというものの、ロンドン・ロスチャイルド家は、古めかしい格付けを改定しようとフランス国内で呼びかける。それがパリ・ロスチャイルド家を刺激した。「ムートン」を除いた4大ブランドと組んで、ロビー活動を妨害し、既得権の防衛に動いたのだ。ムートンが1級になれば、より高い価格をつけてきたラフィットの地位がおびやかされると考えたのだ。

しかし、そんなことにお構いなくフィリップは、「ムートン」を1級に格上げすべく、いろんな手を打つ。土壌の改良や、品質の向上はもちろんのこと、ピカソ、ダリ、ミロら、ラベルを世界的な芸術家の絵に切り替えたのも、そのひとつ。

こうして、たゆまぬ努力でワインを造り続けた1973年、ついに悲願の第1級に。ボルドー・メドック格付けの歴史上唯一となる昇格を果たした。フィリップがシャトーの経営を引き継いでから約50年、71歳の時のことだった。この記念すべき年のラベルを描いたのは、パブロ・ピカソ。絵のタイトルは、「バッカナール(バッカスの酒宴)」。喜びを象徴するかのように、歌い踊る酒の神、バッカスが描かれている。

その当時、農業大臣だったジャック・シラク(元フランス大統領)が、ムートンを1級に引き上げる行政命令に署名したのだ。ほかの多くのワインについても検討されたにもかかわらず、ムートンだけが昇格。これは、フランスのワイン格付け制度にとって、例外中の例外であった。

というのも、その背景には、ロンドン・ロスチャイルド家の政治力が使われたとみられている。すると、どうだ。1973年のラベルに刻まれた新しいモットーは、
「われ一級なり、かつて二級なりき、されどムートンは変わらず」
と、いかにも誇らしげに、こころにくいばかりの勝利宣言をしたものだ。

パリで生まれ育ったフィリップがシャトーを訪れたのは、第一次世界大戦中のこと。16歳のときだった。パリから疎開し、戦争が終わった後もしばしば訪れていた。そんなときシャトーが荒廃していくことを目の当たりに見て、ブドウ畑に興味のない父アンリに経営を自分に任せてくれと直談判。

かれは、レーサーとしてモナコ・グランプリに出たり、オリンピックにヨットで出場したり、ボブスレーで、グランプリを取りそこなったりするなど、ロスチャイルド家の御曹司としては、破天荒な活躍をしたものだ。その一方で、大学で学んだ電気工学の知識を生かして、パリの「ピガール座」に、電気のスポットライトを初めて使用し、フランスのトーキー映画輸出第一号である「乙女の湖」を制作したりと、とにかく新しいもの好きだったようだ。

シャトーの経営者として着任したフィリップは数々の改革をおこない、その品質を著しく向上させた。まずは水はけ、地質の改良、ブドウの樹の選別など、ワイン畑の見直しを意欲的におこなった。

改革のいくつかはワイン業界にとって革命的なことだったが、とりわけ影響が大きかったのが、「生産者元詰」だ。従来おこなわれていたワインの樽を、いったんボルドー市内に送って、業者にビン詰めしてもらう作業をあらため、自分のシャトーで品質管理をおこなう、いわゆる「シャトー元詰め」を導入したのだ。

フィリップは、ネゴシアンに瓶詰めを任せていては、どれだけ良いワインをつくっても、消費者に届くワインの品質を保証できないと考えた。若い新参者だからこそ、既存の枠組みに疑問を抱き、実現できたことかも知れない。

1926年には、奥行き100メートル級の熟成用セラーの、あの名高いグラン・シェを建設。このセラーは、今でもムートンを訪れる人たちの主なアトラクションとなっている。それに、ワイン博物館をオープンさせて、数多くの観光客を集めた。1933年には、隣接するシャトー・ムートン・ダルマイヤックを購入して、シャトー・ダルマイヤックと名前を変更し、所有地を拡大した。

90年代に普及したセカンドラベルや、ブランドワインの先駆けともいえる「ムートン・カデ」も、フィリップが生み出した革新的なアイデアだった。

注目すべきは、ブドウを厳選し出荷基準に外れたワインは、セカンド・ラベルで売り出すことに成功したことだ。まだほとんど誰もワインの個性や、ほかとの違いにこだわっていなかった時代に、かれはあえて自分の商品にこだわって、ワイン史上はじめて独自のブランドを創案したのだ。それが、ムートン・カデだ。リリースの際にはムートンと間違われないようにムートン・カデ(ちびムートン)とわかりやすい名前をつけ、さらにラベルも慎重にデザインした。現在でも、世界でもっとも販売数が多いAOCボルドーである。

不況が続き、歴史的な悪天候に見舞われた不作の1930年代、カデは時代の好みにぴったり合った、大ヒット商品になったのである。その理由は何といっても、有名ブランドの技術と経験でつくられた新作ワインが、フィリップいうところの、
「手ごろな価格で、シャトーの味わいを」
楽しめるお値打ち感にあったことは、もちろんのこと。フレッシュ&フルーティを信条とはするが、ムートン・カデ・ルージュは、6~10ヶ月熟成させる。それに、近年はカベルネから、メルロー主体に変化。買いブドウからつくるブランドワインとして、シャトーの財政を支える存在ともなった。

そんなムートン・カデだが、さまざまな農家が栽培した買いブドウ100%でつくられていたが、2004年に改革に乗り出し、2015年にはすべてのブドウが契約農家から供給されるようになり格段にクオリティが向上した。

さらに、1979年にはカリフォルニアで、ジョイントベンチャー・ワインの先駆けである「オーパス・ワン」を生み出した。フィリップは当時のシャトー・ムートン・ロスチャイルドの醸造長を送りこむなど、惜しみなくボルドーの技術を提供し、ここにオーパス・ワンが誕生した。

結果として、このプロジェクトはボルドーの最新技術をカリフォルニアに伝え、カリフォルニアワイン産業の発展にも貢献。そしてその後続々と、カリフォルニアに進出するフランスの生産者も増え、ジョイントベンチャー・ワインも世界中で誕生することになった。

そもそも、格付けなるものは、1855年のパリ万国博覧会に際して、ボルドーびいきのナポレオン3世が、無理矢理につくらせたもの。というのも、英国生活が長かったかれは、これを機に、一気にボルドー・ワインを世界中に知らしめようと考えたわけだ。

しかしながら、当のボルドー市はもめにもめ、頭をかかえこんでしまった。あげく、格付けはおおいに利害関係がからむため、ついには商工会議所に丸投げ。ここでも、議論にあけくれた。が、仲買人組合をたよりに、従来の取引相場をベースに、シャトーの格式などを考慮し、前代未聞の格付けなるものをこしらえてしまった。

ラフィット、ラトゥール、マルゴー、オーブリオンが、ロマネ・コンティ、シャンベルタンとならんで金賞を獲得した。それが、これらボルドー1級シャトーが、一気にスターダムにかけあがる契機となったのだ。



ヨーロッパ最大・最強の金融王国を築いたロスチャイルド家。200年を越えるその歴史は、父と、5人の息子たちの物語からはじまった。長男アムシェル・マイヤーはフランクフルト本家、次男ザロモン・マイヤーはウィーンの分家、そして最も羽振りの良かった三男のネイサン・メイヤーはロンドン分家、四男カール・マイヤーはナポリ分家、五男ジャコブ(ジェームズ)はパリ分家と、この5分家でロスチャイルド財閥をつくりあげたのだ。

ヨーロッパの主要都市に、矢のように放たれた子供たちは、戦乱のヨーロッパの金融・為替で急速に資産を増やした。徹底した同族経営、地域分散投資でリスクヘッジ、および情報の優位性を確保。権力者たちとの関係強化で、事業を拡大をした。

1744年、神聖ローマ帝国自由都市・フランクフルトのゲットーで生まれたマイヤー・アムシェル・ロートシルトが20歳で、そのゲットーでひらいた古銭・メダル商が、ロスチャイルド家のスタートとなった。

かれは銀行家モーゼス・アムシェル・バウアーの息子として生まれた。生まれた時の姓名は、マイヤー・アムシェル・バウアーだったが、元の家名であるロートシルトに改姓。16世紀ごろ、先祖であるイサク・エルナハンが、赤い表札の家に住んでいて、その表札から、人々からは「ロートシルト」と呼ばれていた。赤い楯は一族の家紋であり、また父モーゼスがひらいた銀行の紋章でもあった。

さらに、そのロスチャイルド家の紋章の5本の矢は、まさしく戦国時代の毛利家の3本の矢のごとく、まさにこの5人の息子たちをあらわしたものである。5本の矢は、ファイブ・アローズといわれ、スピードと、正確さを象徴。現在もなお、その紋章を使用している。

■「ブルックナーは神を見た。マーラーは見ようとした」 マーラー:交響曲第1番ニ長調 「巨人(Titan)」

ワルターの言葉である。ワルター/コロンビアで聴く。これぞ、古典。今なお、第一級の演奏だ。歴史的名盤。ワルターは録音に際し、この曲が、まだ聴衆に特別な曲であったために、エキセントリックになり過ぎないように、極めて妥当なテンポと、マーラーらしい色彩感を残しつつ、楽器のバランスを考えながら演奏。今聴いても優れているのは、そうした指揮者の工夫が、録音にしっかり織り込まれているためだ。

ワルターの本質は、状況に合わせて、自分のスタイルを変えることができるところにある。 師匠であるマーラーの作品でも、受けないと思えば、遠慮なくマーラーの指示を無視した。結局は、だれの作品を演奏しても、最後はワルターの世界になってしまう。NBC交響楽団との演奏でも、これほどまでに濃厚に、また品よく青春のメランコリーを感じさせてくれる演奏はない。

交響曲第1番は、全5楽章で、マーラー20代後半の作品。といっても、まだ若い。まだまだ青春の情熱があふれている。ジャン・パウルの小説に影響されて作曲されたといわれていて、その小説の標題をとって「巨人」と呼ばれている。しかし、実際にはその小説とは関係なく、英雄的人物の苦悩と希望、格闘と敗北といったコンセプトが表現されている。

マーラーの作品は、声楽を伴わない作品でも、歌曲をベースに作曲されていることが多く、「さすらう若人の歌」から旋律がいくつか転用されている。

シンバルの強打ではじまるフィナーレは、最大で、圧倒的。「勝利」と記されているように、金管楽器が高らかに吹き鳴らし、凱旋行進曲のように、戦闘の勝利をあらわしている。