品質はただひとつ、最高級だけ!

ヴーヴ・クリコは、「シャンパーニュ地方のもっとも『偉大な女性(ラ・グランダーム)』」といわれ、メゾンにおける最高級プレステージ・シャンパン名にもなっている。創業200年を記念して発売した、「ラ・グランダーム」がそれだ。

また、それと同時に、マダム・クリコの起業家精神に敬意を示し、「ヴーヴ・クリコ・ビジネス・ウーマン・オブ・ザ・イヤー賞」をも創設。同賞は、ビジネスの世界で功績を残し、成功をおさめた女性をたたえるものだ。


妻と母になるために育てられ、30歳にもならずして6歳の娘をかかえて寡婦となり、なんの職業訓練をもうけず、世のなかのことについては、ほとんど経験もなかった。ただ、決意と、才能だけによって、創設されたばかりの家族経営のワイン会社を世界最大級のシャンパーニュ・メゾンにした女性(「シャンパーニュの帝国 – ヴーヴ・クリコという女の物語」より)。バルブ=ニコル=クリコ・ポンサルダン、それが彼女の本名だ。

夫・フランソワの葬式の数週間後、マダム・クリコは亡夫の遺志と情熱を継ぎ、シャンパーニュづくりのビジネスを続ける決心をする。27歳だった。

海外に製品を輸出するようなシャンパーニュ・メゾンを女性が経営するのは、マダム・クリコがはじめてだった。男尊女卑、1800年代の当時のフランス。これは、あまりにも「無謀で、分不相応で、無分別で、無礼で、出過ぎた行為」だったのだ。

「ヴーヴ・クリコ」は、クリコ家のフランソワ・クリコと、ポンサルダン家のバルブ・ニコル・ポンサルダンが結婚し、現在の「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」となった。

銀行業と、織物業をいとなむ家に生まれたフランソワの父であるフィリップ・クリコは、シャンパーニュにブドウ畑を所有していた。
「wine merchant business under the label Clicquot」
という自分の家名をつけたシャンパーニュ・メゾンを、1772年に設立した。かれは、自社の商品が「国境を越える」ことを誓った。

のち、フィリップは、フランソワーズ・ムイロンと結婚し、会社の名前を「クリコ」から、「クリコ・ムイロン」に替える。

もう一つの「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」の、ポンサルダン家はといえば、バルブ・ニコル・ポンサルダン(後に未亡人となる、マダム・クリコ)は1777年ランスで生まれ、フランス革命が勃発する12年前のこと。まさに激動の時であった。



そんな彼女の実父、二コラ・ポンサルダンは、紡績業を経営する一方で、ランスの市長をつとめたこともあった。当初、貴族派に属していたが、のちに市民派への路線変更。そのおかげかどうか、フランス革命で王室関係者や、貴族がギロチンにかけられた時代に、ポンサルダン家は革命派から糾弾されることはなかった。

1798年、彼女は21歳の時に、フィリップの息子、フランソワと結婚。ポンサルダン家も、クリコ家も大規模な紡績業をいとなんでおり、この婚姻は、業界での勢力を伸ばすための政略結婚だった。そして1801年、義父フィリップが引退して、夫のフランソワが、跡を継いだ。

家業の紡績業、銀行、シャンパーニュ・メゾンのすべてを任されたものの、フランソワの熱意はシャンパーニュづくりに向かい、事業拡大を進めた。フランソワは、メゾンの名前を「クリコ・ムイロン・エ・フィス」に替えた。これは、「クリコ家・ムイロン家+息子」の意味で、ムイロン家はフランソワの母の姓、「息子」とはフランソワのこと。

かれは、シャンパーニュ・メゾンで初めて、「海外セールス部隊」を編成。「シャンパーニュは高貴な飲み物」とのイメージを固めたのは、フランソワの大きな功績。なかでも、ロシアの皇帝や貴族から熱烈な支持を受けた。

そんな結婚の6年後の1805年、フランソワが他界(自死とのことだが、表向きの死因は腸チフス)。享年31。一人娘のクレマンティーヌは、まだ6歳だった。

1805年のブドウの出来が悲惨だったことや、皇帝になったナポレオンがヨーロッパ中で戦いを仕掛けて世の中が騒がしかったことから、義父のフィリップはシャンパーニュ・メゾンを清算し、廃業するつもりだった。マダム・クリコも、実家も嫁ぎ先も裕福で、娘と生きていくのに経済的な問題は何もない。

それに、その当時はまさに革命の動乱期で、王政・貴族制が廃止され、ヨーロッパは戦争で疲弊していた。特権階級に愛されていた高価なシャンパンは、革命派の矢面に立っていた頃だった。

1806年、イギリス軍によってフランスの港が封鎖され、クリコの年間生産量3分の一がムダになった。あげくは、ロシアがスウェーデンに宣戦布告。ブルト海にまで封鎖が広がってしまった。輸出は、もはや不可能になってしまった。

かつてほど収入のないフランス貴族もシャンパンを買うこともできず、クリコも行き詰まっていった。それでも、彼女はシャンパン事業を独立させ、1810年に「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」と名をあらため、その決意を示すためか、あえて社名に”ヴーヴ”と記した。

が、あちこちで戦争が起きていて、海外セールス部隊の懸命の営業活動にも関わらず、贅沢品のシャンパーニュは売れない。マダム・クリコには、熱い気持ちはあるが、ヴーヴ・クリコ社の販売は、フランス市場ではなく、海外市場に大きく依存していたため、ビジネスは大苦戦となったことはいうまでもない。

最大の顧客がロシアだったが、ナポレオンが港湾封鎖をしていたため船積みできず、さらには、ロシアのアレクサンドル皇帝がフランス製品を禁輸にした。まさに踏んだり蹴ったりの状態であって、このままでは倒産は時間の問題だった。

けれども、ナポレオンがエルバ島に島流しとなり、ロシアが対フランスの禁輸措置を緩和した年にマダム・クリコは、5年越しで計画していた対ロシア輸出を強行した。実父・二コラゆずりの「大胆な決断力」を発揮。失敗すれば、一発倒産だ。マダム・クリコはひそかにオランダの輸送船をチャーターし、カリーニングラードへ10,550本、サンクトペテルブルクへ12,780本を出荷。

むかしからヴーヴ・クリコの極甘のシャンパーニュは、甘党のロシアで大人気だったのだ(ドサージュで加える砂糖は1リットルあたり150gで、現在の20倍)。船積みしたシャンパーニュは、陸揚げ、即完売になった。

さらには、ロシアのアレクサンドル皇帝の末弟、ミハイル・パヴロヴィチ大公が、「余はヴーヴ・クリコしか飲まぬ」と公言したため、ヴーヴ・クリコ社は一転して、大人気・好景気になった。

1814年が終わるまで、ヴーヴ・クリコは巨大な彗星が横切ったおかげ(?)で大豊作ともなる大幸運もあったが、ロシアへの輸出を強行したのだ。それは、クリコのワインを気に入ってくれるだろうという、たったそれだけのほんの一抹の希望にかけた賭けでもあった。

しかし、運は彼女に味方した。クリコのシャンパンはロシア市場を席巻し、独占したのだ。それから、わずか数十年のうちに、マダム・クリコはワインを7つの大陸に出荷するようになっていた。この成功によって、マダム・クリコのワインは伝説化した。

コルクに錨と、V.C.Pの文字の刻印をした。数年後、彼女はボトルに同じモノグラム(組み合わせ文字)を刻印。これは、伝統と、優雅さのクリコ・スタイルの象徴として世界中に認められている、有名なイエローラベルのデザインのできる前のことだ。

初めてヴィンテージ・シャンパーニュをつくったのも、マダム・クリコ。記念すべき「初ヴィンテージ」は1810年で、33歳の時。また、彼女は完璧さを追求し続け、夜もワインセラーを点検していた。敷地図を入手し、最高のワイン・ヤード購入するとともに、完全秘密のルミアージュ(澱抜き)を考案。

シャンパーニュの製造過程で、二次発酵させてから、穴が開いた動瓶台にボトルを逆さまに入れ、動瓶(ルミュアージュ)をして澱をボトルのネック部に集める。逆さまのままコルクを抜き、ネックに溜まった澱を吹き飛ばして透明度の高いシャンパーニュをつくるのだが、この動瓶台を発明し、澱を取り除くプロセスを考えたのも、彼女だった。39歳の時だった。

そのおかげで、それまで澱が多く、薄くにごっていたシャンパーニュがすっきりと澄んだ。この手法はシャンパーニュ業界に革命を起こし、約200年経った今でも、すべてのシャンパーニュ・メゾンで使われている。

赤ワインをブレンドしてロゼ・シャンパーニュをつくったのも、ヴーヴ・クリコが最初。当時のロゼは、エルダーベリーというブルーベリーに似たフルーツから紫色のジュースを搾り、白シャンパーニュに混ぜていた。

マダム・クリコは、ブージー村(後にグラン・クリュ)のピノ・ノワールをブレンドして、初めて、ブドウだけでロゼ・シャンパーニュをつくった。41歳の時。このロゼが、有名な「ローズ・ラベル」だ。

シャンパーニュ事業を継いだのは娘のクレマンティーヌではなく、血縁関係のない同社社員のエドゥアール・ヴェルレだった。かれは、1821年からヴーヴ・クリコ社に勤務。早くに両親を亡くした苦労人で、謹厳実直。

ビジネスの才覚があり、人を見抜く目があったマダム・クリコは、献身的な努力で会社を急成長させたヴェルレを後継者に指名。64歳で引退。ヴーヴ・クリコ社をヴェルレに任せた。

1886年、マダム・クリコは89歳で逝去。シャンパーニュ・メゾンの経営権以外の土地、建物、銀行業、紡績業関連の財産は、娘のクレマンティーヌが相続した。

メゾンの跡を継いだヴェルレは、ロシアだけでなく、イギリスやアメリカに市場を拡大。ロシア人と違い英国人やアメリカ人は、極甘口のシャンパーニュを好まない。そこで、「辛口」であることが分かるように、イエロー・ラベルをつくった。



当初こそ、「クリコ・イエロー」のラベルは、辛口と分かるように貼っていたが、非常に目立って印象に残ること、また、世界の嗜好が辛口になったことから、この黄色をトレードマークとして使うようになった。初めて使ったのは1876年。クリコ未亡人の生誕100周年となる翌1877年に、この黄色を商標登録。

このユニークで目を引くラベルを世に出し、その後ヴーヴ・クリコの際立った特徴のひとつとなった。ブランドが、一目でわかるようになったのだ。その有名な黄色、通称「クリコ・イエロー」は、一説によると目玉焼きに由来するそうだ。ヴェルレは朝食の目玉焼きの黄身を見て、「この色だ」と思ったという。

現在では、世界有数の「モエヘネシー・ルイヴィトン(LVMH)グループ」の傘下に入り、世界的な販売網を手にしている。また、イギリスのエリザベス2世に気に入られ、英国王室御用達の栄誉をも授かっている。

さてさて、そんなヴーヴ・クリコが提唱するシャンパンの飲み方というのは、普通のシャンパンの飲み方とは違って、
「五感すべてで、味わう」
という手法をとる。まずは、シャンパンの泡が奏でる音を聴覚で楽しむ。次に泡や、色などを視覚で楽しみ、だんだんと変化していく香りを嗅覚で楽しむ。そしてシャンパンを口に含み、弾ける泡を触覚で楽しみ、甘みや、酸味などの味わいを心ゆくまで味覚で楽しんでほしいという。

■お酒は20歳を過ぎてから。飲酒運転は法律で禁止されています。お酒は楽しく適量を。

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